昭和44年9月2日 朝の御理解

御理解第58節 人が盗人じゃというても乞食じゃというても腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃというてももらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。

 例えば、人に悪口を言われても、腹を立てるなと。ええ、神様が見ておいでだから。ううん、神様が。ああ、ご覧になっておる世界に生き抜くことが信心だから、腹を立てるな、と。なるほど、ここでは、ここんところも、たいへん大事なところだと、こう思うんですね。
 けれども、最近、頂いとりますように、腹を立てては馬鹿らしいと、いうような、ああ、ううん、一つの思い込みというか、ああ、徹したものが出来ますと、腹を立てるようなことを、聞いたり見たりした時に、そのかえって、そのにこにこしたいようなものが、生まれてくるわけなんですねえ。
 腹を立てるだんじゃない。かえってその、その後の、おかげを受けることの方が、楽しいといったような、変な、境地とでも申しましょうかね。まあ、有り難い境地ですけども。
 ですから、ここに、そこんところは、最近頂い、その頂いております、腹を立てるな、とか、不足を言うなとか、ね、または、どん欲をしてはならないと、この三つがあったんでは、人間の幸せはもう絶対に頂けないのだと、ぎりぎり、究極のところは、この三つが、ああ、でけた時に、ええ、人間の幸せがあるのだと、いうふうに、まあ、いろいろ頂きますから、まあ、ここんとこ、だんだん、腹の立つようなことが起こってくることによって、かえって一つの楽しさを感じるといったようなものが、生まれてくるんですね。
 腹を立てなと言われる。神が見ておるから、「あたしはちゃんと知っとる。それけんあんた腹をたてなさんな」と、言われて腹を立てんというのは、よく言う、ぐうぐう言うてこらえとる、と言ったようなものですからねえ。ね。
 そりゃあ、後々で、神様が顔を洗って下さろう、下さってもです、ね、だから、顔を洗うて下さろうが下さるまいが、どんな悪口を言われてもです、そこで腹を立てんですむだけの信心は、一つ、体得しなければならんと思いますね。
 もう腹を立てるのが、もうほんとに、腹を立てるのがもっともだと、いうようにして、涙を流して、腹の立ったことを、お届けされる方があるんですよね。昨日、ある若い嫁さんが、参ってまいりまして、お母さんはもう熱心な、ああ、ああ、信心も非常に巧者な信心をして、もうそれこそ女手一つで子供たちを大学に出したり、商売をしっかりやって、ええ、ほんとに物分りが良く、良くて、信心の、言わば、理解力もあって、内輪ではもう、
その為に、親との上にも、嫁たちとの上にも、子供たちとの、あの、仲にも、ほんとにあの、スムーズにいっておるように、あたしゃ思うておった。そういうふうに話す。いつも話して、ほんとに偉いなあと思うておった。
 まあ、そうだったのかもしれないのですけれども、その、うん、昨日嫁さんがお参りをしてきてから、まあ、ほんとに、嫁にも来てから、何年になりましょうか。もう子供が二人おりますが、もう辛抱に辛抱を重ねとった、と。昨日からも、とにかく、まあ、合楽の先生にでも聞いてもらわなければおられない、と。
 合楽にああしてお母さんが参られるけども、これでよいのでしょうか、と。と言うて、言われたことの一つ一つを、ずーっと手帳に控えとらんばかりに、控えとるとかも知れん、あがしこ覚えとるなら。いつはこうじゃった、いつはこうじゃった、と言うて、まあ、はな、話を聞くと、なるほど、そんくらいのことも分かっとらんのかの、と、こう思うようになりますけれども、その方、方もですね、だから、あたくしは申しました。ね。
 嫁ごに行ったからと言うて、あんまりあんたが今までつとめるから、いけなかったんですよ。人間の、そうつとめるということはね、ほんとにやっぱりお勤めであって、ねえ、それが身についたものじゃないから、努めて、おとなしくしとるとか、努めて、親切にしておるとか、努めて、年寄りを大事にしておるとかだから、必ずそれは言わばぼろが出るのは当たり前。そのぼろの出たところを、とって抑えられるようにしてやられるなら、たまったもんじゃない。ね。
 これはあたくし、ほんとに思うんですよ。ううん、お互いが、そりゃ息子をもっとりゃ、嫁をもらわにゃならん。娘をもっとりゃ、嫁にもやらなきゃならない。ね。ですからあたくしほんとにその、嫁ごちゃ、こうなからなきゃならんもんだ、といったようなことをですね、よく言う人がありますけども、そしてまた、嫁に行ったら、嫁ちゃこうあらんならんものだと、こうするのが良い嫁だというふうに、その教えられとるもんですから、それを、つとめるわけですねえ。
 例えば、さあ、毎日、年よりの肩足、足腰を揉んでやらにゃならんとか、どうせにゃならんとかと。まあ嫁としての、その、ま、それが勤めだと、いうように教えられとるもんですから、それをしっかり勤めておるわけです。
 ところが、子供二人もでけてくるようになると、もう、その勤めをやらんわけです。今度は怠るわけです。そすと、初めの間はよかったばってん、もう子供がでけたら横着になったというふうにしてから、今度は、そこをにらまれるわけです、ねえ。
 ですから、しちゃならんのじゃないけれどもです、それがもう、つとめずしてできるようなおかげを頂かにゃいかん。ね。
 今日はちょっと手がすいとりますけん、おばあちゃん、肩一つ揉ませてもらいましょうか、と。その手がすいとるから、それでいいのだ。それを、あれもこれもせんならんと思うとに、やっぱりとつめじゃけんせにゃできん。だから、良い嫁に見えとったけれども、それがでけんようになると、ね、ま、嫁が横着になったというふうになるのです。
 もうですから、もう、ほんとにこの、あるがままになるがままにの中にね、お互いが、いかに信心であらなければならないかということです。けして、つとめるということは、これはけして、よいことじゃありません。ね。
 それは、勤め抜くということが、言われておりますが、勤め抜ければ、また別。そしてその嫁さんの、腹の立つという、涙の出るほどに腹の立つという、その、お届けを聞かせてもらいよってですたい。あの、ひとっつもあんたが腹のたてるところはないじゃないか、と、言いたいようなことなんです。ほんとに悲しい、と言うて、その泣くから、あんたの話聞きよると、あたしも悲しいてあたしが言う。て言うて、まあ、悲しい話をするから、わたしも悲しみながら聞かしてもらって、そしてその後に話すことです。
 だからいっちょどうでん、○○さん、しっかり信心せにゃいかんばい、しっかり信心の帯をしとってごらんなさい。今あんたが腹が立ったと、悲しいと言うて涙を流しておるそのことがですね、かえって有り難うなるよ、て、信心は。ね。
 腹を立てなと言わんでも、腹を立てたら馬鹿らしいことになってくる。そこに、ばばさんも立ちゃあ、お母さんも立ち、自分も立つというような、その、ことに、おかがが頂かれるんだ、と。ね。
 だから、そこまでは、信心のない者とおんなじことなんだから、信心させてもらいなさい。信心させてもらうと、その、ほんとに、話を聞いておると、悲しいまでに腹が立ったり、泣くごともあるけれども。ね。それを、一つ、信心の帯をしっかり(???)よと。「神がよく見ておる、しっかり信心の帯をせよ」。しっかり信心の帯をしたら、どういうことになるかと。それが楽しみになってくる。ね。それはもちろん、ほんとなことが、段々分かってくるからでありますけれどね。
 だから結局、自分の力量とか、自分の思うておるとか、自分の、その、心と、ただ、いうなら、真心が、表現されるもんでなからにゃいかん。心もないのに、真心でもないのに、それを勤めよるから、そら、きつなったり、しるしなったりして、結局悪口言われんならん、と。
 これはまあ、ね、特にその家庭問題の上には、他人が入ってくる、いわゆる嫁をもろうたとか、ね。と、いうようなことん時に、起きてくる問題ですけれども、まあ、それは別といたしましてね。今日のところは、その、腹を立てな、と言われるが、腹を立てんということはです、私が知っとるけん、まだあわて(?)なさんな、と言われてもです、それをぐうぐうこらえておるということはです、ね、それこそ、神様から顔を洗うてもらわなければ承知がいかん、だから、顔を洗うてもらうこともなんもいらん。
 それがおかげの元になると、ほんとに分かればです、腹の立つような問題が、ね、まあ、誰でも叩かれて痛くない者はないけれども、痛いけれども、やはり、有り難い、といったようなものが生まれてくる。ここで腹立てておったんでは場からしかといったようなものすらができてくる。ね。
 ですから、ここんところは、大事、ここんところの一番大事なところでしょうけども、今日あたくし、とりわけね、信心に、ん、しっかり信心の帯をせよとおしゃるところ、を、頂かにゃいかん。
 わたし、ここんところを、(??)信心(?)から頂くのは、今あの、葉鶏頭というのがあるでしょう。あの、鶏頭の花が咲く、花がありますけども、花はなしに、葉だけが花のようにきれいになるのがありましょう。葉鶏頭。なんのことか分からなかったら、今、ここで頂くのが、58節であり、しかもその、しっかり信心の帯をせよというところを頂きますから、はは、ここんところばいなあ、とあたくしが思うた。ね。
 たとえや、花もきれいだけれども、葉もきれい。ね。花だけじゃ(?)、おかげだけは有り難いけれども、修行の時は有り難くない。というのじゃいけんということ。分かるでしょう、もう、ね。だから、花は咲いてない、葉だけでも、葉鶏頭じゃないけれども、花のごと美しか、ということである。ね。
 これはもう、手前味噌っていうか、ま、自画自賛のようになりますけれども、これはまあ、ほんとだからお話をするならね。あたくしの修行時代の時分の時のこと。皆さんも知っておられる方も、たくさんあります。ほんに金光様の信心ちゃあ、惨めなもんじゃ、と、憐れだと、あげん(??)なくても、と、いうようなものを、与えたか、信心とは、ほんとに尊いもんだというものを、与えたか。見る者をして。
 妹が、あたくしどもの妹が、あの、善導寺の、山門、あのう、門前の、ちょっとあそこのへんに、小さい殖産会社がありました。金を貸す、小さい、お店でしたが、そこに、ええ、勤めておった時代があります。
 あたくしは、ああ、一週間にいっぺんはもう絶対ですけども、あの、用があると、あのう、修行がもう、いよいよたけなわになってまいりました頃は、バスを利用しませんで、電車でしたから、福岡から、大城から歩いてくるんです。ね。いわゆるあの、今も残っております、あのう、夏服、に、破れかばんを下げて、破れ靴を履いての時代なんです。
 ある時にそのう、そこの、支店長ですか、所長さんが、妹に言われるんです。「ちょいと、池尻さん、見てご覧。あの、今、前ば通りよって人、いつもあそこばあげんして通りよんなさるが、あの人はとてもただ人じゃなかばの」ちて言うたち。そやけん、「あれは実はあたしが兄です」ち。「はあ、そげなことの」ちて、その、言わっしゃった、ということ。
 目立っておったんですねえ、その、様子が、こじきのような格好しとるから。けれども、誰も、こじきとは言わなかった、と。「あの人はただん人じゃなかばの、あの人は」て言うた。
 役場の前に行くと、大坪ちゅうてねえ、これはあたくしの方のおつきあいです。ね。とにかくほんとにもう、信心ちゃあ、まあほんとに厳しいことだけれども、あの時分の先生、ほんとにあなたの姿から後光が射しとった、ち。ように見えた、とこういうんです。ね。
 それに、まさぎさんもあたくしの修行中、この人はよく知っとりますが、そげん言うとります。ある時にあたくしは北野にお話して、帰っておるのと、まさぎさんが、どっかあっちの方に行きよるのと、会ったらしい。あたしは知らない。あそこに、こう、二股になっておる。そこを、あの人は、まあ、単車かなんかで、こう、行きよったんです。あたくしは、ちょうど、岐路のところで、どちらの道通ってよいか、分からんから、合掌しながらご祈念して、右か左かを、神様に頂いて、もう、道でもその時代、ね、この道を通ってよいか、ここ、この、二股に道が分かれておると、そこの岐路に立って、どちらの道を選ばして頂いたらよいかということを御神意頂いてから、こう通る。ちょうどわたしが、こうやっておる時に、こう、横を通ったわけです。「もうあん時、後ろから拝みました」ちてから、今でもまさぎさんが申します。ね。
 ほんとにほいとじゃなかじゃろうか、こじきじゃなかじゃろうかといったような、いわば生活もそうですけれども、なりもやはり、そうでしたけれど、なら、こじきじゃと言うた、ほいとんごたるとも言うたこともなか。むしろそこん中に、なんとはなしに、信心の厳しさと尊さといったようなものが、まあ、いうならば、にじみ出ておったということになるのじゃないでしょうか。
 あたくしは、まさぎさんに、ある時申しました。(??)さんと一緒にトラックに乗って、前を通りよるからと言って、ちょっと椛目の(?)へ寄った。ね。腹当てはめて、ハンテン着て、まさぎさん、背広よりも、あんたその姿が一番よかばい。美しい。て、私が言うたことがある。 
 繁雄さんあたりが、もう、畑ん中から、ちょっと出てくる、と、もう、あげななりしとりましたけんで、寄りませんでした、ち言われたことがある。そうじゃあない。例えば農家の方達がですね、あの、仕事着着て、それこそ、額に汗しながら、一生懸命、畑の仕事なら畑の仕事なさっておる時の姿は、実に美しいです。ちょいと、汚い、ほんに百姓ちゃあ、もう、ち、思わんでしょうが。ほんとにお百姓さんを拝みたいごたるでしょうが。ね。
 田植えなら田植えの時に、それこそ、言わば、濡れしょぼたれになっておられてもです、泥まみれになておられてもです、その姿というものは、尊いです。
 一生懸命に、その、難儀なら難儀というか、きついならきつい仕事を、打ち込んでおる時の姿が美しか、美しいんです。ね。
 今日あたくしが頂くのは、そこのところだと思うんです。ね、修行中。苦労の真っ最中。けれども、そのことがです、それが、尊い。それが、美しい。ね。
 あたしは、しっかり信心の帯をせよというのはね、そういう修行中に、周囲から見てです、ね、信心ちゃじゅつなかろう、といったようなね、ものがもし、自分のこの五体から発散しておるならね、もうあんたの修行は、ゼロです。ね。泣き泣き修行しよるようなことでは、もうゼロです。ね。
 相手に何か、生き生きしたものが与えられる。相手に、ほんとに信心ちゃ尊いものだ、というようなものが与えられる。ね。そういうものがあって初めて、わたくしは、ね、しっかり信心の帯をしておる者の姿だと、こう、わたしは思います。
 そういう例えば、ね、葉も生き生きしておる。もちろんそれに花が咲いたら、なお素晴らしいことは間違いない。おかげ。ね。おかげの花が咲いた。その花だけがどんなに美しかっても、ねえ、葉に虫がついておったり、葉がしおれておったんでは、もう値打ちはない。
 畑ん中で一生懸命に、泥にまみれて、お百姓しておられる人の姿が、美しくもまた尊くも見えるということ。ね。それを、そのことの中に、ああ、今日もまた、このクワば握らんならん。また、草取りいかにゃならん。また、(?)ん(?)ばこ、作らにゃならん、ちゅうごたる、ことでは、それこそ、汚らしく見えるでしょうけれども。ね。
 それこそ、しっかり、百姓なら百姓することの帯がしっかり、でけとる。だから、それがあたくしは、美しく、また、尊く、それが見えるんだと。
 信心の帯をしておる、と言うが、はたしてあたしゃ本当に信心の帯がしっかり締め上げられておるだろうか。ね。腹の立つようなことを言われた時でもです、それが嬉しゅう、にこにことして心の中ではです、受けられるような、姿の時に、わたくしは、その人の姿が、尊く見えると思う。ね。
 言わば、葉が生き生きしておる姿、葉鶏頭のようなもので、葉そのものでも、花のように見えるのです。ね。葉ばっかりでも、それが、花のように見える。その上に、花が咲いたら、いよいよ素晴らしいことになるのです。
 神がよく見ておる、しっかり信心の帯をせよ、と。歯食いしばって、一生懸命がんばりよります、というのじゃない。ね。もうそこに、その、没入しておるというかね、その、例えば、仕事なら仕事に、もう何もかにも忘れて、ぼ、没入、没頭しておる。ね。
 きれいなきもの着とられるわけでもない。ね。姿がええ、格好がええ、というわけでもないけれどもです、けっして。けれども、それに没頭しておる、その姿が、美しく見える。ね。お百姓の方達が、一生懸命、ね、田畑の御用をなさっておる時に、それが、美しく見える。
 いわゆる、勤労という、ね。勤労の、あの、おお、尊さというようなものがです、それを見るものをして、それを感じさせれれる、ようにです。信心のただ今修行中でございます、という人たちの姿がです、信心のない人から見てもです、ね、信心ちゃ、有り難いもん、尊いもんだなと。とにかく、あげな風に言われとったばってん、顔色一つ変えらっしゃらじゃった。ね。むしろ、心の中で拝んでおる、その、姿が、何とはなしに、現れてきた時に、信心ちゃ、いよいよ尊いもんだ、というふうに、周囲に与えれるくらいなものを、頂きたい。それが、あたくしは、しっかり信心の帯をしておる時でなからなければ頂けないと思います。(雑音あり)ね。
 まだおかげの花が咲いておるという人は、合楽にはおりません。ですから、今こそ葉鶏頭じゃないけれども、花は咲いておらないけれども、その修行そのものが美しいと、素晴らしいと、ね、言われ、または自分でも感じれれるほどしの、信心を頂きたい。その上におかげの花が咲いたら、いよいよ有り難いことになってくることでしょうね。どうぞ。
                                     (翠)